テスト週間中に感じたモヤモヤ

 鬼のようなスケジュールのテストも残り二日。翌日の科目は、手書き資料の持ち込みが許されていたので、出題されそうな用語とその説明や公式を書き連ねていたのだが、不思議なほどペンが進まなかった。

 「俺、何でこんなことやってんだろう。」

 もちろん答えは単純で、その科目を碌に勉強していなかったために、点数を取るにはそれが一番効率的だからである。ただ、その時間が異様に苦痛だった。こんなに違和感と虚無感を感じたことは珍しかった。書く気力は失せ、ペンを置き、考えはさらに飛躍した。

 「何で勉強してんだろうな。」

 冒頭から矛盾するように思えるだろうが、僕は勉強が嫌いではない。新しいことを知れるのは楽しいし、本質を理解したと思える瞬間は不思議なほど愛おしいものである。(最近は、フーリエ変換の奥の深さに感動した。)加えて、将来は自分の専攻分野で研究職か開発職につきたいと思っているので、現時点での知識の乏しさとのギャップを埋めようというモチベーションもある。

 ただ、今の勉強の仕方が気に食わないのである。

 

 大学という場所に入って二年が経つが、人生という枠組みの中で勉強の意義を考えることは多くなった。それは学際的な風に吹かれたのもあるし、少しは社会を広く捉えられるようになったからでもある。または、上京したことで親からの自立を意識するようになったからか、逆に強く依存していることに気づいたからか。今までが考えなさすぎたぐらいだ。弊大学には「進振り」といって、二学年時の途中から学部を選択する制度があるのだが、それも良い契機となった。

 幸い、「何のために学ぶのか」という問いには一通り決着はついたし、それに伴って、いかに学ぶべきかということにも指針は立ったつもりだ。

 

 「平成史」と謳って時代を振り返る番組が増えたが、いつの時代も、社会は僕が思っているよりもずっと学問に支えられていた。専門的な知識を学ぶうちに、学術的な知見が社会を切り拓いていることにも、最前線で活躍する人は、真摯に学問と向き合っているということにも気づいてきた。

 そうした社会の中で、大学は本当の意味で学問を修めに行くための場所だと思っている。よくよく考えてみると、こんなに自由に学べる環境はない。現在の日本社会では、ある種就職予備校的な役割を果たしているが、結果的にそうであるかは別にして、就職のために行く場所という見解は絶対に誤りであると思う。

 僕自身、いずれは就職をするだろうが、その一部としてではなく、人生の中で自分を高めるための時期として捉えられるようになった。新たな価値を生み出すことと、既存の概念を踏襲する勉強というのは、その意味で全く異なるものではあるが、温故知新という言葉が指し示すように、二つは隣合わせだと信じている。

 だから、後の自分に生きるものとして、勉強をしたい。

 そして、勉強するときは「本質」を理解することが何よりも大事だと思う。

 あれだけ時間をかけた受験勉強科目でさえ大半は記憶の彼方に追いやられているが、基礎的に深く理解したことだけは残り、今の勉強の土台となっている。それを思うと、本質と呼べるものを多く自分の中に取り込めるかが重要事項である。

 少し話が逸れるが、僕は数学が苦手である。理論的な数学が苦手で、工学部に進学した部分もある。数学が道具の域を出ると、どうも僕の脳じゃ理解が追いつかなくなるらしい。それもあって、理工書を読むときにはもの凄く時間がかかる。数式での長い証明の後に簡潔な方程式が導かれたとしても、やれ納得とはいかず、その公式自体の示さんとする物理的な意味が分からないと納得して次に進めないのだ。直感的理解というか、「要はこういうこと」と自分で噛み砕いて説明できるようになるまで理解した気になれない。面倒な性格だと思う一方で、僕なりにはこれが本質を理解することだと認識している。工学部の人間としては専ら実空間の物理現象を扱うわけだし、こうして理解したことは、他の学問領域との関連性も見えてきて極めて汎用性が高い。

 こうした知を取り込むことこそが、僕にとっての「勉強」だ。

 

 少し長くなってしまった。本筋に戻そう。

 気に食わないのは、ここまで自分の中で整理できていながら、実際にはそれに反した行動をとっていることだ。

 なぜか。

 先に、「今の勉強の仕方が気に食わない」と書いた。まるで自分以外の何かに責任があるようである。だが、よくよく考えてみると誰からも強要などされていないことに気がつく。こうまでしないと単位が取れないような鬼畜な試験範囲を課されているわけでもない。

 そう、自分からこの状況を作り出しているのだ。

 そこにモヤモヤがある。ご立派な信条をお持ちになりながら、それを簡単に捨てている自己矛盾に腹が立つ。そこまでして、良い成績が取りたいか。そんな姑息な手段を取ってまで、たかが数点が欲しいのか。

 良い研究室に行きたいからか。

 その思いは多少なりともある。成績が研究室配属に影響するという話は聞く。希望する学部には進学できたものの、行きたい研究室に行けないのは相当辛いものがあるだろう。しかし今の感情は、「希望する研究室に行くために頑張って高い点数を取ろう」という類のポジティブなものとは異なる気がする。どちらかというと、ネガティブなものだ。

 他人は他人で、その人なりの勉強観を持っているため、「この科目は過去問暗記で点数が取れるから大丈夫」とか、「この範囲はテストに出ないから勉強しない」などという声を聞くが、そんな勉強に意味があるのだろうかと思ってしまったりする。

    しかし、それはその人なりの考えなのだ。僕だって、価値を見出せない科目は単位を取るだけの勉強にしてしまう。つまりそれは、僕の価値観に従って、僕が下した判断なのである。同じ構造が、相手の発言の裏にもあるはずだ。

    そしてそれは、友人が昨日何を食したのかと同じくらいに、自分には全く関係のない話なのだ。だから、否定をする気は一切無いし、資格もない。そもそも自分と比べること自体が間違っているのだ。その人はそういう考えをするのだと理解するだけで十分で、自分は自分の心の声に従えばいいだけだ。

 

     そう心から思えればいいのだが、執拗に気になってしまう。 それは恐怖心とさえ言えるかもしれない。周りなど気にせずに自分が正しいと思うやり方でやればいいのだ。自分に言い聞かせる。しかし、どこかで「怖い」と思ってしまう。周りが是とする基準の枠を超えて自分の価値観だけに従って動こうとするとき、不安を通り越して、恐怖感を覚えてしまう。

 つまり、僕はすっかり他者基準の中で生きていたのだ。いつしか、他人のものさしで測らないと、行動選択ができなくなってしまっていた。

 思い返すと、幼少期から色々なことを人並み以上にこなせたことが逆に、他者を過剰に意識するようになった原因かもしれない。はたまた、他人の基準に従って行動してきて、大きな失敗しなかったことが一役買っているのかもしれない。受験勉強なんかはその典型例で、他人に決められた基準以上の結果を出すことが求められる世界だ。

 他人に決められた基準に従って結果を出すことで他人から認められるというサイクル。それをこなすうちに、自分の意志というものがぼやけてしまった。

 

 「自分はこう思う、だからこうする。」

 「周りを周りなんだから、関係ない。」

  そこにいる自分でさえ、他者だった。

 

 

 今あるものに猛烈に没頭したいというのが僕のもう一つの悩みなのだが、よくよく考えてみると、この悩みと大いにリンクしていた。「没頭」とは、完全なる自己との対峙であり、他者から隔離された世界をイメージさせる。 

 この部分から変えていかないとな。

 今学期には、学科でおそらく僕以外の全ての生徒が履修したであろう「熱工学第一」という科目を履修しないという試みもした。履修することがマイナスになるとは思わなかったが、その選択は僕にとって価値があった。 

 だが、意識はできるが根本はなかなか変わらない。

 この話題を思い浮かべるとき、いつも、僕と対照的な知人のことが想起される。彼女のように、のびのびと生きてみたいものだ。

 

 そんなことを思いながら、僕の大学生活は半分を折り返そうとしていた。