バークレーに来て4ヶ月が経ちました。

 現在、所属している東京大学工学部の交換留学プログラムによって、カリフォルニア大学バークレー校に来て勉強をしています。東大での学科は機械情報工学科で、専攻は機械工学と情報工学ということになるのですが、こちらでは神経科学をメインに勉強しています。丁度昨日に期末試験が終わり、今日から冬休みに入ったところです。

 時が経つのは本当に早いもので、ついこの間空港に降り立ったと思えば、もう秋学期が過ぎ去ってしまいました。いやいや、とはいっても毎日に喰らいついていくのが必死で、振り返ろうと思えば既に今日になっていたという表現の方が正しいかもしれません。 

 やはり自分のためにも一度今学期を振り返っておくのは大事だと思い書き始めたところ、かなりの文章量になってしまいました。僕の文章能力がもう少し高ければ簡潔にできるのでしょうが、大目に見てください。

 授業の様子やそこで感じたことが伝わればいいと思って書いていますし、海外生活という観点からも、単に「価値観が変わった」「行動力がついた」などという量産型の言葉で括っては思考停止しているようにも受け取られかねないので、できる限り自分の言葉で書き記したいと思います。

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キャンパス訪問初日

 

 

授業

 今学期に、聴講を含めて履修した科目は以下の通りです。当初は神経科学系の授業のみを履修しようと思っていましたが、様々な科目を履修できることを知って、工学系の授業も履修することにしました。

 以下に、各々の授業の内容を記していこうと思います。

 

  • MCB 160: Cellular and Molecular Neurobiology (4 units)

 細胞レベルや分子レベルの正統的な神経科学です。週3日1時間のLecture Sectionと、週1日1時間のDiscussion Sectionによって構成されています。指定教科書は以下の2つで、もちろん全ての範囲を扱えるわけではないのですが、大部分を扱います。

 

Principles of Neural Science, Fifth Edition (Principles of Neural Science (Kandel))

Principles of Neural Science, Fifth Edition (Principles of Neural Science (Kandel))

 
Principles of Neurobiology

Principles of Neurobiology

  • 作者:Liqun Luo
  • 出版社/メーカー: Garland Science
  • 発売日: 2015/08/12
  • メディア: ペーパーバック
 

 

 一度基礎的な神経科学を学びたかったのと、僕のラボのPIが担当している授業だったので履修することにしましたが、想定していたよりもさらに純粋な生物学という感じだったので、全体を通してかなり苦労しました。

 授業サイトは貼れないのですが、代わりにedXのリンクを貼っておきます。これはハーバード大学の授業ですが、カバーしている内容はほとんど同じです。実際、並行的にこれを受講することで分からなかった部分を補いながら、なんとか乗り切ることができました。誰でも無料で受講できるので、興味のある方は覗いてみてください。

www.edx.org

 全く専門外のことをいきなり英語で学ぶというのは、我ながらかなりハードモードだったと思います。背景知識もさることながら、専門用語を英語で覚えるのが大変でしたね。やはり現象を説明するには適切な動詞があるので、それもセットで覚えなければ試験で記述できないという点にも苦労しました。

 また、もう1つ苦労した点を挙げるとすると、分野的な特徴にも慣れていなかったということがあります。

 僕にとって馴染みのある工学と違って、自然科学、殊に神経科学をはじめとする生物学は、実験と観察がまず初めにあって、その結果をその範囲のモデルを使って説明しながら理論を構築します。ですから、ある現象があるモデルによって説明できたからといって、同じモデルが別の現象にも適用できるかと言えばそうではないし、そのモデルも公理から導き出されたものではないというのが前提なのです。初めのうちは、この帰納的な性格に違和感があって何だか雲を掴むような感覚でしたが、このことに気づいてからは少し壁が抜けた感覚があり、理解のスピードを促してくれたように感じます。こういったメタ認知も時として重要なのかもしれません。

 一時期はモチベーションを失いかけていたこの科目ですが、振り返ってみると確かに価値があったと思えます。東大での学部では身に付けられなかったであろう知識を手にすることができましたし、何よりも研究室生活に大いに役立っています。初めてのラボミーティングでは議論がほとんど理解できず、終始クエスチョンマークを頭の上に浮かべているような状況でしたが、この科目を学ぶうちに徐々に発言ができるようになってきました。

 また、上記の意味で大学入学後から一番苦労した科目だったので、それを乗り越えられたことは小さな自信にも繋がったと思います。

 

  •  MECENG C178: Designing for the Human Body (4 units)

 

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スタンフォード大学からの招聘講義

 人間の骨格や運動を理解しながら様々な課題解決型のデザインを考えていく、といったコンセプトの授業です。週2日1.5時間のLecture Sectionと、毎週グループベースで出される課題の他に、セメスターを通して2つのプロジェクトが行われます。

 Mini Projectは、オープンソースで出回っている義手を3Dプリンタでプリントして、そのデザインの改善案を作ってプレゼンするという課題で、全グループ共通に行われます。

 Final Projectは、グループごとに実際の企業がクライアントについて、企業からの要件を聞きながらプロトタイプを作って、プレゼン、ポスター発表までするというものでした。プロダクトそれ自体というよりもデザイン過程に重きを置いたような授業で、少なくともクライアントと4回はミーティングをし、受けたフィードバックを元にプロトタイプを作り直せというのが唯一課された条件でした。学部生の授業で、実際の企業がつくというのは非常にユニークですよね。ちなみに、僕たちのチームは企業ではなく2つの研究室がクライアントについて、作業中の足裏にかかる荷重分布を測定するウェアラブルバイスを作るというプロジェクトでした。以下の記事にまとめたので、是非覗いてみてください。

qiita.com

 

 ただ物を作るだけでなく、プレゼンからレポート作り、ポスター発表までちゃんとやるとそれなりに得るものがあります。例えば、ポスター発表当日では、授業の内容を知らずに見に来た方から「このプロダクトの目的は何だ。」「解決したい問題は何だ。」ということをしきりに聞かれました。もちろん課題や目的はクライアントから提示されたものではあるのですが、作り手としても正しく説明できないといけません。

 これは授業で紹介された面白い例で、一番右の図を顧客が説明しようとしたときに様々な業種の人間がどのように解釈したかを表した図です。

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 ここまで極端に齟齬が生まれなくても、クライアントの求めるニーズと、実際に出来上がったものの間に一貫性を持たせるというのは、案外難しいことなのかもしれません。例えば今回の例では、可視化の方法よりもセンサーの質や時間解像度に比重を置くべきだったと反省をしています。エンジニアだと、どうしてもプロダクトアウトで考えが先走ってしまうのかもしれません。

 幸いなことに、教授から春学期も続けないかという提案をいただいたので、"Independent Study"という科目として単位を貰いながら続けていく予定です。

 

  • EE 120: Signals and Systems (4 units)

 信号処理論と制御工学の授業で、週2日2時間のLecture Sectionと、週1日1時間のDiscussion Sectionによって構成されています。内容は、東大の信号処理論第一とシステム制御の内容をミックスしたようなものですが、もちろんそこでは習わなかった内容も多く扱いました。特にこの授業は例題を使って説明がなされることが多く、また、授業で扱ったシステムをプログラミングで実装してその挙動を見るというような宿題も多く出されたため、より実践的な印象を持ちました。東大の講義で理論をしっかり学んで、こちらでは応用に近いことをやるというのは、理解の流れとして非常に良かった気がします。毎週出る宿題は、音声処理や画像処理、倒立振り子などを例に取って授業の内容を深められるものが多く、目から鱗が落ちるものばかりでした。これをGSI:Graduate Student Instructorと呼ばれる大学院生が作っていると知ったときは驚きました。

 

  • COGSCI: C127 Cognitive Neuroscience (4 units) 聴講

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講義風景(サングラスが怖い)

 その道で有名なJack Gallant先生による、認知神経科学の授業です。MCB 160がハードウェアの話であるとすれば、こちらはソフトウェアの話で、脳の中でどのように情報が処理されているのかを扱います。指定教科書はなく、授業スライドと毎週出る膨大な量のリーディング課題によって構成されています。また、最終プロジェクトとして論文並みのレポートか、データ解析のプログラムを組んで提出をするという個人課題が課されます。流石にこれはクリアできないと思って履修登録はしませんでしたが、先生に頼んでみたところ、快く授業サイトにだけは登録されてもらえました。試験のプレッシャーがなく聴講のみをするのは気楽で良いものです。

 ちなみに、Gallant先生は研究者として物凄く優れていらっしゃるのですが、授業スタイルには少々難があるらしく、東大でいう逆評定(生徒が先生を評価するサイト)ではかなりの低評価を受けています。先生もそれを自覚しているらしく、初回の授業では

「例年、どうせここにいる奴らの半分は履修登録をやめるのだから、3週間もすれば教室が涼しくなるから安心しろ。」

とジョークを飛ばしていました。

 余談ですが、こちらでは生徒が教員を評価するシステムもしっかりと確立されていて、それが教員の給料を左右するらしいです。そうでなくても、人からフィードバックを貰おうとする意識は根付いているようで、僕があるTAの評価アンケートを放置していたら、「どうして回答していないんだ。君が授業をどう感じたか分からないじゃないか。」と怒られたを覚えています。この姿勢は見習いたいところですね。

 

  • COMBIO 98BC: Berkeley Connect in Computational Biology (1 unit)

 日本なら、楽単と言われるような授業ですかね。専攻問わずこの分野に興味のある生徒が集まって毎週1時間だけディスカッションをします(Biology, Bioengineering, Computer Scienceが多かったような)。授業では毎回サンドウィッチやピザを配ってくれて、宿題も一切ありません。学期の最初と最後に先生と一対一の面談があって、進路について相談に乗ってくれます。ディスカッションで扱う内容は様々で、最新の研究領域の話や、キャリア選択、履歴書の作り方といった実践的なものまであります。

 やはり、こちらの大学では入学時からキャリアを真剣に考える風潮が強い印象を受けます。日本のように、学部4年時の研究室配属や、新卒一括採用が存在しないので、理系でも一度も研究をせずに就職をする学生もいれば、入学時から研究を行う学生もいます。

 

 

 授業全体を通して、バークレーは東大よりも実践に力を入れているような印象を受けています。また、これはアメリカの大学全体に当てはまると思いますが、1つの授業にかける時間が多いです。日本だと週に1コマある授業をたくさん履修するのが一般的なスタイルですが、アメリカでは上記のように科目数が少ない分、1つの科目に多くの時間をかけます。その分、1つの授業の中で広い範囲を扱う形になっています。単に、日本では複数の科目に跨っていたものがまとまっただけという表面上の違いに過ぎないのかもしれませんが、同一のシークエンスの中で教わるというのは、両者の繋がりが見えやすいという点で長けています。日本だと、異なる科目間の繋がりは自分で見出さなくてはいけないので、僕にとってはこちらの方が易しいです。

 また、横断されるのは、異なる領域に加え、基礎と応用でもあります。

 やはり、基礎からしっかりと固めていくというのは日本人らしい考え方なのかもしれませんね。日本の大学はカリキュラムがかっちりとしていて、一度基礎を固めてから応用に向かうという流れになっています。地盤がしっかりするので深い理解が可能となるのですが、基礎から応用への流れは、自分で見出さなくてはいけません。逆にこちらでは、もちろん下級クラスと上級クラスというものは存在するものの、それらが階層的になっているというよりかは、個々の授業で基礎から応用までが一貫しているような印象を受けます。

 少し話が逸れますが、アメリカの学力的な高等教育のレベルは、日本と比べると低いと思います。特に数学については驚くほど低く、ある授業で新入生にグラフの平行移動を教えただけで神のように崇められて、逆にこちらが困惑しました。

 それでも、上級クラスでは難しい概念を簡単に使いこなしているのです。

 もちろん、恐ろしい程のGPAへの執念や、日々の宿題による強制力によって勉強量に差が出ているということもあると思いますが、上に書いたような一貫性が役割を発揮しているのではないかと推測しています。すなわち、基礎的な事柄も、常に応用が念頭に置かれた状況で説明されるので、要所を掴むという点では優れているということです。

 例を出すと、工学系の授業ではベクトルの固有値というものがしきりに出てきます。東大では工学系であろうと理学系であろうと線形代数学の授業で数学科の先生に教わるのですが、それは数学的な定義であって、しばし理解を難解にします。

 ただこちらでは、個々の授業に必要な基礎知識として、宿題の中で扱ったりするわけです。これがある意味では理にかなっていると思うのは、元々は特定の分野にその都度出てきたはずだからです。制御工学で言えば応答解の形であるし、主成分分析であれば特徴量の分散なのだと言ってもらった方が、導入としては分かりやすいのかもしれません。

 また、講義の中で長ったらしい証明をすることはほとんどなく、時には「そんな適当でいいの?」とこちらが拍子抜けするくらいイメージに立脚した説明がなされることがあります。とにかくこちらでは、多少の厳密性を犠牲にしてでも、言語や視覚によってできるだけできるだけ簡潔に説明することを好む傾向があるようです。頭の中で”That makes sense.”となることを求めるのです。

 この言語的理解偏重主義は、この国の価値観の1つとまで言えそうな気がします。日本だと、相手に伝わりやすい表現というよりも厳密に正しいかが重要視されますよね。あらゆる人種が集まっていて言語能力にもばらつきがあるこの国では、とにかく相手に伝えるという寛容さが土壌として備わっているのではないかと思ったりもしますが、この憶測には幾らかの飛躍がありそうです。

 これらの特徴のおかげで、学生は骨子だけをうまく抽出しながら前に進んでいけるのではないかと思っています。

 

 ここに書いたような特徴は単にスタイルの違いであって、どちらが優れているとは言えないと思います。僕は実学主義なので、こちらの方が性に合っているような気がしますが、単に新鮮に映っているだけなのかもしれません。

 

 

研究室生活

 おそらく今学期の最も多くの時間を割いていたのが研究室活動です。下の動画の初めに出てくるIsacoff教授のラボで、主に画像解析系を担当しています。

 


DARPA at Berkeley: Developing a Million Neuron Cortical Modem

 

 

 留学の目的の1つにこの研究室に入ることがあったため、東大でのTA経験さえも”Teaching Experience”の項として入れるぐらいに脚色したCVを日本から送ったのを覚えています。そのメール対して、

contact me when you arrive.

とだけ返事を貰った状態で訪れた面談の最初の握手では手が震えていましたが、会ってみると物凄く人柄の良い人で、幸運なことに受け入れていただくことができました。

 研究を主導しているポスドクのVictoriaは、僕の生物学への知識の無さに愕然としたようでしたが、僕の興味分野や日本での研究内容を考慮して、主に解析の仕事を与えてくれています。上のビデオで紹介されている研究プロジェクトは中断してしまっているのですが、現在はzebrafish(上のビデオに出てくる小さな魚)をトラッキングするプログラムを書いたりしながら、基礎的な神経回路の研究をしています。

 しかしながら、初めはラボミーティングにも全くついていけず、コミュニケーションにもかなりの困難を覚えました。

 また、上記のようなある種「憧れ」のような気持ちで入った僕は、言われたことをただ行うだけの、仕事の下請け業者のようになっていました。いつの間にか、この研究グループに入ることが目的となって、そこで何をしたいのか、どのように貢献したいのか、と言う意識が完全に欠落していました。

 実際、ある朝に解析結果を彼女のもとに持っていき

「今回も有意差が出なかったんだけど、どうしたらいいかな。」

と聞くと、振り返って

「サイエンスというものは、誰も答えが分からない問題なの。だから、私に聞いても分からないのよ。あなたが考えることを放棄したら、あなたがここにいる価値は無くなるわ。」

と叱責され、ようやくこのことに気づかされました。

 現在は、上のような叱責も、まだ見切られずに対等に扱ってくれている証拠だと思って奮闘しているつもりですが、言われたこと以上の創造性を発揮することができず、その上期待された結果が得られないときは苦しいものです。

 ただ、やはりこれこそが研究だと思って頑張るしかないなと言うのが今の感想です。

 今学期はなかなか難航していて、まだ形になるような研究成果を出すことはできていませんが、最近になってようやく活路が見えてきたのは嬉しいことです。また来学期には、上記のプロジェクトにも関連する領域にも手を出せそうなので、期待が持てています。

 

多様性、そしてアメリカ人

 (ここでは、国籍に関わらずアメリカに住んでいる人全てのことをアメリカ人と表現をします。)

 日々生活をしていると、「多様性」というキーワードを考えずにはいられません。特にカリフォルニアは、本当に様々な人種が混在しており、この上なく多様性に満ち溢れた場所です。それ故に差別もほとんど無く、アジア人にとってもとても住みやすい場所です。

 バークレーの学生全体を見渡しても、皆が個性を持っています。能力だけに関わらず考え方さえも人それぞれなので、人と比べ合うことが無意味に思えてきます。言わば「無限次元価値ベクトル空間」なので、意味のないマウンティングなどが存在し得ないのです。

 しかし逆に言えば、自立しておらず、意見を持たないことが最も悪徳とされる風潮があります。人に合わせることがはなから要求されない代わりに、どのように人と違った価値を生み出せるかを試されているような気がします。

 その観点からすると、上記のグループワークの中での僕の初めの振る舞いは、思い出すと恥ずかしくなるぐらい散々たるものでした。とりわけデザインプロセスに重きを置いた授業だったので、コミュニケーションが重要なことは言うまでもありません。アイデア出しでは全く貢献できず、どんどん萎縮するようになってしまいました。レポート課題を分担して書くことになり、自分のパートを時間をかけて書いていった結果、これはアカデミックライティングじゃないと言われ目の前で高速で校正されていったときには何とも言い難い気持ちになりました。自分だけが足を引っ張っていることをまざまざと見せつけられたようで、ひどく惨めな思いをしました。

 もちろんこれに関しては自分の英語能力の欠如が最大の原因ではあるのですが、上の点から反省をするならば、周りに同化しようとする意識こそが最大のミスでした。自分が足を引っ張っていることを意識するあまり、周りのメンバーと同じようなレベルに達しなくてはならないと感じるようになっていたのです。それは協働よりも競争に近く、やがて周りと同じように振る舞わなくてはならないという意識へと変わっていきます。そうすると、自分の意見というものがますます出せなくなってくるのです。

 そんな状態で僕の地位は下がり続けていたのですが、ある週に、脈拍をセンサーで測って解析結果をレポートにまとめるという課題が出されました。他のメンバーはあまりプログラミングが得意そうではなかったので、ここは挽回のチャンスだと思って、計測の1週間前に解析用のコードを用意した旨を知らせると、思いの外反応が良かったのを覚えています。続いてその次の週も別の課題で同じようなことをすると、またもやとても感謝されました。それを続けているうちに自分への見方も変わってきて、コーディングなどはメンバーから僕に頼ってくれるようになりました。

 後になって気づきましたが、これこそが、僕が人と違った価値を生み出せたということだったのです。

 その流れで、Final Projectでも自分がソフトウェアの部分は担当し、その代わりに他のメンバーがレポートやプレゼンを率先して担当してくれるという形が出来上がりました。このときには、僕も素直にメンバーに頼り、またそのことに感謝することができるようになっていました。

 これが、多様性が上手く実現された状態だと感じました。レポートを書くのが苦手なのは、母国語でないのだから当たり前。できないことを「能力が劣っている」と考えるのではなく、それさえも1つの多様性だと考えてしまえばいいのです。そうすれば、逆に自分の特徴は何なのかを探り、それを生かしてチームに貢献しようと前向きに考えることができます。個人的には、この考え方の転換が大きかったのではないかと思います。むしろ、そうしたマインドセットにしてくれること自体が、多様性の本当の恩恵なのかもしれません。

 そう思うと、こういった記事New York Timesに書かれたのを見れば、何だか悲しい気持ちになりますね。もちろん性別は多様性の一側面に過ぎませんが、最も簡単な属性でさえ達成できていないということが、現状を端的に物語っています。

www.nytimes.com

 

 また、多様性が故に、アメリカ人はどこまでいっても「個人」なのだということを感じます。

 バックグラウンドを共有していない彼らは、おそらく強い帰属意識なるものを持っていません。アメリカ国歌が盛大に歌われるのは、それ故でもあります。その他に彼らを結び付けるものは多くありません。

 この特徴は、日常生活の中でも度々感じることができます。おそらく多くの人はアメリカ人は物凄くフレンドリーだというイメージを持っていると思いますが、それはある意味では正解であり、ある意味では不正解です。確かに道で人に会えば気軽に挨拶をするし、レストランでも店員と日常会話が始まったりします。しかし、それを超えてパーソナルなことを聞こうとするのは、なんとなくタブーなような空気感があるのです。日本は会話の外側を推し量る文化ですが、アメリカでは実際に言ったことと聞いたことしか事実になりません。だからこそ、特に生い立ちや宗教などのパーソナルゾーンに関して相手が言ったこと以上を執拗に聞くようなことは、ムッとされることが多いです。

 グループワークでも、日本だとメンバー間の親睦を深めようとすることは当たり前だと思いますが、こちらはそうではありません。グループメンバーはあくまでグループ活動をするメンバーであり、それ以外に接触を持つことは必ずしも必要とは考えられないのです。

 彼らは、常に個人として戦っている強さ、そうあり続けなければいけないという儚さのようなものを持っています。

 その点においては、真の友人関係になることの難しさは日本とあまり変わらないような気がします。常に一緒にいるからといってその壁を突破できるとは限りませんし、逆にひょんなことから打ち解けたりする点も、とりわけ日本と相違があるわけではありません。

 そしてそれ故に、「個人」を持っているということは、もはやアメリカで認められるための絶対条件でさえあるように思えます。個人を持っていないことは、意思の弱い者として蔑まれる原因になります。しかし難しいことはなく、今までのアイデンティティを維持したまま、少し心を開きさえすればいいのです。実はこれが一番難しく、自分自身をよく理解していないことに気づくのですが。

 アメリカに溶け込もうとしていた初期の僕は、つい周りに合わせて気味が悪いほどにフレンドリーになろうとしていましたが、これは上の理由から間違っていたように思います。ずっと日本で育ってきた僕にとっては、初対面の人には、いきなり"Hey, guys!"というよりも、敬語を話すような口調で話す方がよっぽど自然なのです。逆に、上のような方法で無理に自分を変えようとすると、アイデンティティを失っただけの人になってしまいます。

 幸いなことに、日本で美徳と認められていることは、こちらでも美徳であることが多いです。表面上での違いはありますが、それは実践に移しているか否か、または程度の差でしかありません。

 僕の友人は、謙遜しがちな僕の様子を見てからかったりしますが、

 「君は少し物静かで控えめだけど、礼儀正しくて日本人らしいね。」

という言葉の裏には確かに敬意を表してくれました。

 「アメリカ人ぽいね」と言われるよりも真にこの国に認められた気がするのは僕だけでしょうか。

 

英語について

 今までに散々書いてきた通りですが、英語にはかなり苦しめられました。こちらに来てしまえば何とかなるだろうと楽観視をしていましたが、学期が始めるとそうも言ってはいられません。

 講義内容は、専門用語を断片的に切り取って聞けばある程度理解できるのですが、レポートやディスカッションはそう容易くはありません。特にこちらの大学では、理系科目でもディスカッションやグループワークが重視されるので、能動的なコミュニケーションスキルが要求されます。

 日本語は、結論を後ろに持ってくることができる言語なので、話し始めてから最終的な結論を考えるゆとりがありますが、英語はその逆です。しばし「抽象から具体」と言われる英語のコミュニケーションは、「結論から根拠」ということを意味するので、話始める前に自分の意見を固めておく必要があるのです。

 さらにこちらの学生は躊躇せずに発言を飛び交わすので、悠長に考えをまとめているなどもってのほか、カットインするぐらいの気概がないと発言のチャンスさえ与えられません。やはり、幼少期から積極的に発言をする訓練がなされているのでしょう。本当に口が立ちます。

 今の自分はというと、冗談を言えるくらいには成長したと思います。これは、アメリカンジョークのフレーズを覚えたということではなく、適切な切り返しを考えながら話を聞けるようになったということです。当初は頭を精一杯回転させないと会話できませんでしたが、意識を会話の外側に放り出していてもコミュニケーションが取れるようになったのは、成長した指標の1つかなと思っています。

 それでも、自分が目標とするような英語レベルにはまだまだ程遠いですね。上に書いたような日常会話もそうですが、どちらかと言うとアカデミックな英語力を身に付けたいです。今のところ、雰囲気で騙し騙し伝えているような状況ですし、レポートもグループメンバーに頼ることでこなしていました。政治学を専攻している友人らは、日々膨大な量のリーディングやライティングをこなしているようで、本当に頭が上がりません。

 

全体を振り返って

 留学に来るにあたって、「遊ぶように学んでくる」という表現を使いましたが、まだまだ存分に遊びきれていないように感じます。まだまだ目の前の小さなことにいっぱいいっぱいで、今ひとつ自分の殻を破れないような気がするのです。

 正直10月は精神的にかなりきつい1ヶ月でした。活動のほとんどが上手くいかなかった時期で、変な方向に悩み込み、自分を追い込んでいた時期だったと思います。そのせいで、2回も熱を出しました。大した成果も残せない自分を情けなく思い、留学に来た意味や、日本と異なる専攻分野を学んでいることの意義さえも疑問視するようになってしまいました。

 僕が大事にしている言葉の1つに、尊敬する教授がおっしゃっていた「決断が自分を作っていく」というものがあります。留学に行くことを決めた際にも、この言葉の力をお借りしました。しかし、どうやら僕はいつの間にか間違った方向に解釈してしまっており、「正しい選択をしなければいけない」と自分を縛り付けていたようです。さらには度を越して、「自分の下した決断は正しかったのか」とまで思うようになっていました。

 当たり前ですが、過去の決断を変えることはできません。そして、その決断が正しいかなんて、誰も知ることができません。

 僕に足りないのは、正しい選択をすることではなくて、自分の選択を正解にする努力をすることでした。

 

 僕と同じような立場で留学に興味を持っている人から、「理系なのに学部生で行くのは何で?」とか、「メリットってあるの?」という質問をたくさん受けます。僕も、自分自身に問い続けて来ましたが、正直に言って答えはないです。上に書いた通り、意義は後から獲得するのものだと思います。逆に、初めから分かっているなら行く必要がないようなものです。

 ここでは留学を例に取りましたが、これは何も留学に限った話ではないと思います。僕たちはあらゆる行動の前に、正解を求めすぎなのかもしれません。誰かに決めつけてもらったら、最後の最後に言い訳にできますしね。

 1つ心配しなくて良い点は、人間、自分の過去に関しては都合よく解釈できるようにプログラムされているということです。大概のことは後になって良かったなと思えるようになっています。

 

 

最後に

 年末には家族が来てくれるようで(残念ながら父親は来れないのですが)、寂しい年越しを過ごさなくて済みそうです。母親もアメリカに来るのは初めてだそうで、僕が通訳をできる状況で来れたのは良かったなと思っています。

 また、今日からは友人と共に1週間ドライブ旅行をする予定です。途中にラスベガスに立ち寄るので、留学資金を回収できるぐらいボロ儲けしてやろうと意気込んでいます。期待しておいてください。

 そしてここまで読んでくださった皆さん、特に大学生の方は、そろそろ遊びに来たくなっているのではないかと思います。胸に手を当ててみましょう。答えはそこにあるはずです。残念ながら、日本での春休みの時期はこちらは学期期間ですが、週末にはサンフランシスコ市内も案内できるので、今すぐに航空券を購入しましょう。一般的に3ヶ月前が安いですよ。

 それでは、良いお年を。

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ロゴが灯るSather Tower