金閣寺

    ※三島由紀夫の小説「金閣寺」、黛敏郎作曲のオペラ「金閣寺」を鑑賞した後、京都の金閣寺を拝観する機会を得たので、そのときに感じたことを、エッセイにしました。

 

 

 

    雨上がりの金閣は、より一層輝いていました。

 池の中に佇む金閣はじっと形を変えず存在し、石の苔は長い歴史の体現者です。池は、その表情から空気の流れを感じさせ、金閣の壁面に波模様を映し出します。その光沢は時々刻々とニュアンスを変え、太陽にかかる雲の流れを忠実に反映します。

 永遠と刹那。

 砂利道を進んだ先に急に拓けて見える景色は、それらを同時に表象していました。完璧すぎるまでに均整が取れており、人間が入り込める余地など一つもないようです。美は、客観的に存在するものでしょうか。

 

 左手の甲に雨粒らしきものを感じたので目線を移すと、そのついでに他の観光客たちが視界に入ってきました。皆、思い思いに金閣を眺めているようです。ある人は、熱心にガイドブックの文章と照らし合わせています。自分が主役だと言わんばかりにポーズを取っている人もいました。誰一人として同じ金閣は存在しないのだと、月並みな考えが浮かんできました。人が必ず写真を撮ってしまうのも、実は意味のあることなのかもしれません。自分が写っていない風景写真ならネット上にいくらでも転がっているのに、何故人は自ら写真を取るのだろうかと不思議に思っていたのですが、自分なりの世界の切り取り方を残したいからなのでしょう。僕が金閣を眺めながら馳せる思いは誰にも再現できないように、視覚体験による世界の切り取り方も、自分だけのものですから。

 

 やはり、美は概念のようです。

 存在するのはただの無機的な物質であり、そこに有機性を見い出すのは人間です。自分の感じ方によって、世界は如何様にも捉え直すことができます。

 その意味でも、世界を変えるのは認識なのかもしれません。

 

 「この世界を変貌させるものは認識である。」

 

 これは、小説の中に登場する柏木という男が持っている思想です。柏木は、主人公の溝口と同じようにコンプレックスを持って生まれながらも、彼とは対照的な生き方を演じます。内飜足というコンプレックスを、視点を変えて認識することによって、自分に有利なように人生を逆転させているのです。劇中でも、柏木の台詞は自信に満ちて歌われます。

 認識は、自己の存在を認めることでもあるのでしょう。

 僕の知人も以前、自分という存在は自分と外界の境界線にある、と言っていました。彼女は少し違う意味で言ったのかもしれませんが、外界を認識することで自己を定義するという意味では、僕の考えと共通するのかもしれません。

 

 そんなことを考えながらゆっくり歩いていると、丁度、金閣の裏側に辿り着きました。最も近くに見える場所です。金箔の継ぎ目まで、はっきりと見ることができました。僕は音楽が好きで、素晴らしい音楽とは、全体の中に部分があって、部分の中に全体があるものだと思っているのですが、同じように、金閣にも部分性と全体性が共存しているようでした。全体を美しくする所以は各所に趣向が凝らされているからであり、ひとたび細部に目を移せばそれは調和をもって全体に支えられていることに気づくからです。

 そんな気づきを得て満足げになっていると、自分が金閣に近づいていくような気がしました。自分なりに認識すればするほど、自分と金閣が重なりを帯びてきます。

 しかし、すんでのところで手が届きません。ふと一歩引いてみると、金閣はまるで無表情でした。まじまじと眺める僕には目もくれず、気品高く佇んでいるようでした。それは丁度「不気味の谷」のようで、僕と金閣の距離は、認識の力によってある程度のところまでは縮まるのですが、それ以上を拒んできます。

 

 「世界を変貌させるのは行為なんだ。」

 

 こちらは、溝口が柏木に反抗する台詞です。そして、金閣を燃やすに至った思想でもあります。これは僕なりの解釈なのですが、溝口はこの言葉と共に、世界と真っ向から向き合うことを選んだのだと思っています。柏木の生き方は一見合理的で、とても打算的です。その証拠に、コンプレックスを物ともせず、器用に生きることに成功しています。しかし、自分の本質からは目を背けたのだとも見ることができます。溝口は、その生き方は選ばなかった。あるがままの自分と向き合って、不器用にも生きていくことを選んだのです。

 認識と行為。

 僕はやはり、溝口の生き方を支持したいと思います。

 認識するだけでは、自分の存在を確認することしかできません。自分の中で世界が完結してしまうからです。決して外界の方から応じてくれることはありません。僕が先ほど感じた金閣との隔絶は、ここにありました。

 自分が存在する意義を獲得しようと思ったら、自らが外界に働きかけ、影響を与える必要があります。それこそが、行為なのです。

 

 木の葉が目の前を横切り、水面に落ちました。綺麗な同心円の先には、一人の男がこちらを見ています。

 

 認識だけに徹するのは、楽なものです。外界に影響を及ぼさないということは、外界から批判されないことと表裏一体を成しています。自分の認識の檻の中で世界を構築できれば、それはそれで幸せでしょう。

 それでも僕は、青臭いかもしれませんが、自分がこの世界に生まれた意義を見い出したいと思うのです。生まれてしまったからには、価値のない人間のまま死んでしまうのは悔しいと言ったほうが、正しい表現かもしれません。

 

 認識と行為。

 

 これは、身近な事象にも照らし合わせられるでしょう。

 テレビでニュースを傍観するだけか、自らが行動の主となるか。先人の背を追う勉強をするだけか、その先に歩を進める研究、開発をするか。

 陳腐な例ではあれど、この文章を書いていることも、「行為」に当てはめているつもりです。金閣を見て、認識したことを自分の中だけに保存しておいても良かったのですが、文章として表現することで、外界に働きかけているつもりです。

 

 土産物には目もくれず、急ぎ足で帰ることにしました。風が肩を撫でた気がしたので振り返ると、木々の間から金閣が姿を覗かせます。その表情は先ほどより少し和らぎ、僕に微笑みかけてくれているようでした。

 

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